一般財団法人 山本美香記念財団(Mika Yamamoto Memorial Foundation)

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2018年5月23日
第5回「山本美香記念国際ジャーナリスト賞」受賞・笠井千晶さん 受賞の言葉

 山本美香さんに初めてお会いしたのは、山本さんが亡くなる2年ほど前のことでした。ある晩、二人で有楽町駅近くの居酒屋に入りました。同じ山梨出身で、テレビの報道現場からスタートしたという共通点もあり、携わってきた仕事の話や女性としての生き方の話など、話題は尽きませんでした。私よりも少しだけ人生の先輩だった山本さん。当時、私はテレビ局の報道記者でしたが、いずれはフリーで仕事をしたいと考え、その時が来たら、山本さんにも相談させていただこうと決めていました。いまの私は、ちょうど出会った当時の山本さんと同じ年齢になりました。今回の受賞に際し、大変光栄に感じながらも、「山本さんはもうこの世にいないのだ」という悲しみがこみ上げています。震災後、福島にも取材に入られていたという山本さん。もし生きていたら、今頃どんな福島の姿を伝えてくださっていただろうと考えずにはいられません。

 私にとっての福島は、震災の年の夏、居ても立ってもいられず休日に一人訪れたのがはじまりです。映画を撮るとか、作品を作るというゴールが最初からあった訳ではなく、原発事故後の福島を自分の目で見ておかなくては、という思いに駆られての事でした。本業だったテレビ局の仕事の合間に、時間を見つけては福島に通い、記録した映像を短編にまとめ、チャリティの自主上映を続けていました。それから5年半。長編ドキュメンタリー映画「Life 生きてゆく」は、私がテレビ局を離れ、フリーとなって初めて完成した作品でした。

 映画の主人公・上野敬幸さんとの出会いの衝撃は、いまでも忘れられません。上野さんの言葉によって、私は自分の想像力がいかに乏しかったのかと気付かされ、愕然としました。原発事故に見舞われた福島沿岸部では、津波の犠牲者は誰もいない街に置き去りにされました。そこで被曝を顧みず遺体捜索を続けていたのは、警察や自衛隊ではなく犠牲者の家族たちでした。上野さん自身も8歳の長女を瓦礫の中から見つけ、自分の腕に抱き遺体安置所へ運びました。当時妊娠していた上野さんの妻は、放射能からの避難によって我が子の火葬にも立ち会えず、3歳の長男は行方不明のまま見つかっていません。
「福島の現実はまだ知られていない。」上野さんが繰り返し口にする言葉です。どうしたら現実を伝えられるだろうか? — そして、私が選んだのは「震災後の人生が紡ぎ出されていく歳月を、私自身が共にありながら記録するしかない」ということでした。ただ黙って足を運び続けよう、そしていつか、自然と語ってくれるようになるまで待とうと決めました。それは、常に締め切りに追われるテレビの取材では、出来ないことでもありました。

 放射能一辺倒の被災地で、家族を失った悲しみに「全く目を向けて貰えない」と嘆く、津波犠牲者の家族たち。誰にも見せない表情や心の声、そして背景にある原発事故と津波の真実を、私は知りたかったし、伝えたかったのです。そして、どんなに理不尽な状況にあっても自らの運命を背負い生きる人を、そして、この先も生きてゆく人を、私はこれからも記録し伝え続けたい。今回の受賞は、そんな私の選んだ道を、山本さんが、そっと後押しして下さったものだと感じています。

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